Wandering Star Line

好きな子に満ちた世界で笑って生きています

2015.12.09 Monument Valley

Monument Valley(+forgotten shores)をプレイし終わって、とても澄んだ、というか冴えた気持ちなのだけど、こういう深韻をプレイヤーに与えてくれるゲームって、もう日本のゲームクリエイト産業からは出てこなくなってしまったんだなぁ、と、ただ観察者の目で思う。

その精神性は、単なる思わせぶりな設定やストーリーではなくきちんと練り込まれた深い器から出てくるもので、みせかけのアーティスティックやスピリチュアリズムではないんだよなぁ。

風ノ旅ビト(原題「Journey」、リリース時2012年のGDC AwardsでGame of the yearはじめ6部門を総なめにしたPS3のとにかくスゴクスゴイゲーム)をプレイした時に、ああSCEやってくれたな!って思ってデベロッパー調べて、これをつくってくれたのがもはや日本のクリエイターではなかったことに正直何とも言えず寂しい気持ちになったわけです。もはや日本のゲームを作るしくみは、こういうものをマスに乗せる余裕も才能も(受け止める消費者の感性=需要も)なくなってしまったのだな、と。そうそう、風ノ旅ビトっていうこの邦題は正直どうかと思ってるし、SCEJの感性の凋落を端的に表してるなあと思ってる。

XI(サイ)、ICORez塊魂LocoRoco

ことあるごとに既成概念をブチ壊して精神の深淵へ連れて行ってくれた、ことばのないゲーム達。私を絡め取ってくれたアブストラクトの海。 具象の追及を否定はしないけど、抽象の海はそれよりももっと簡単に、親指の下のボタンを宇宙の果てへつなぐ超ひもにするのだと教えてくれた。

確かに、いつの間にかこの気持ちを教えてくれるゲームは日本にはなくなってしまった。 ゲームはもっとずっとカジュアルになったけど、なぜか日本のゲームは緩やかな滅亡への道をたどっているようにしか見えない。 それは善でも悪でもないのだろうけど、寂しいと思うのは事実だ。

この深い余韻は、何も難しいことやメディアアートに傾倒するって意味じゃなくて、たとえば「MOTHER」をプレイした時の、あの遠くさびしくて温かい気持ちだ。 Monument Valleyでも、TOTEMの存在にフライングマンを思い出した。 そうだね、永遠に続くマジカントみたいなところが、Monument Valleyといえばいいのかもしれない。

Monument Valleyはアメリカのナバホの聖地の呼び名だけれども、このゲームで観る眺めは私にとっては釧路湿原であり、阿蘇大観峰であり、モン・サン・ミッシェルの塔の上からの眺めであり、スイス・アルプスをあの小さなジェットで越えている時の眺めだった。それと同時に私のからだの中にあって、痛みとともに自覚し、空の向こうへ飛び去り、セントラル・サンに還ったり、無数の並行宇宙を知るような、そういうたぐいのものだ。

このうつくしいミニマリズムは、極めてみんなが思う「理想の日本」的なものだと思うし、それにたどり着いたのは日本人のクリエイターではない、というところ、憶えておきたい。

2015年の最後にこのゲームに出会えてよかった。 ゲームを好きで、よかった。 ありがとう。


ちなみに、主人公の、とてもかわいい「忘れっぽい姫」白い彼女の名前はIda(アイダ)と言うけれど、アメリカのアーカンソー州にあるとても有名な水晶(クォーツクリスタル)を産出する山がMt.Ida(アイダ山)と言います。おや?と思ったので、メモ。 私のところにいる、私に一番近い石もMt.Idaで採れたものです。

http://www.monumentvalleygame.com/


この文章はこれで完成だと思うので編集しないけど、追記しておきたいのは、このゲームは死なないし、殺さないし、傷つけすらしないし、そして落ちないし、失敗しないし、詰まない。足掻けば必ず出口があり、しかもその道筋はたった一つで、不可避である。そういう風にデザインされている。 xiで窒息してしまい、ICOがクリアできず、怖くて泣いてしまったあなたへ、というゲームである。